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東大の基礎化学実験

 東京大学の理科一類の学生は、1年の冬学期(2学期)と2年の夏学期(3学期)に必ず「基礎物理実験」「基礎化学実験」という2つの単位を取得することになります(理二・三は若干事情が変わります)。とある一人の東大生・石橋君は、昔から手先が不器用だったために実験というものがあまり好きではなく、…
第8回 出典:東京大学前期 1996年 化学 第3問

 皆さん、こんにちは。東大だと、夏休みは大体7月末からこの10月頭あたりまでです。自分も高校生の時までは知らなかったのですが、大学生の夏休みは長いんですね。これは多くの大学が1年2学期制になっているからですが、それすら知らない人も多いでしょう。ただ、東大理系の場合現実はそんなに甘くない、と。1学期の期末試験がなんと9月頭にあるのです。その辺の苦しみを、皆さんも味わえるといいですね……!

 東京大学の理科一類の学生は、1年の冬学期(2学期)と2年の夏学期(3学期)に必ず「基礎物理実験」「基礎化学実験」という2つの単位を取得することになります(理二・三は若干事情が変わります)。とある一人の東大生・石橋君は、昔から手先が不器用だったために実験というものがあまり好きではなく、ここでも例に漏れず憂鬱な気持ちで毎週化学実験に参加していたのですが、ある週の実験の予習の際、友人からこんな一言を貰います。

「この実験、大分昔の東大の過去問にあったよね」


 既に東大入試ダイスキーだった石橋君は急いで『東大の化学25ヵ年』を調べました。すると、確かに1996年第3問ではその週に自分が行うことになる実験の手順そのままのことが題材となっているではありませんか。

「……東大入試を体感できるッ!」


 石橋君は実験前夜その問題を解き、その週の化学実験には意気揚々と参加することができたのでした。


 ……なんてエピソードも昔あったような(笑) そういう訳で今回は、東大に入学した後理系の皆さんなら必ず履修する「基礎化学実験」でどんなことを体験することになるのか、その種目全12回分を一通り、高校の学習範囲でのキーワードとともに紹介してみたいと思います。ただし紹介するのは2013年現在のもので、実験内容には毎年多かれ少なかれ変化があることをご了承ください。

■物質の合成■
ニトロ化反応――p-ニトロアニリンの合成
 1996年第3問で紹介される手順そのままに、p-ニトロアニリンを合成し収率を求めます。別に収率が成績に影響したりするなんてことはありませんが(無い、と言われていますが……)、やっぱり収率が高い方が嬉しいものですね。キーワードはニトロ化、加水分解、再結晶、クロマトグラフィー。入試ではどれも基本事項な気がしますが、言うは易く行うは難し。析出した粉末を濾過して洗浄して……は不器用な人間にはツライ。中学・高校と自分はあまり実験をする機会が無かったのですが、受験勉強をしているだけでは分からない、ためになる体験をさせてもらいました……。その分逆に、実際に再結晶を目の当たりにしたりクロマトグラフィーの結果が出たりするのには感動を覚えましたね。

グリニャール反応――安息香酸の合成
 グリニャール反応によって安息香酸を合成し、最後にキチンと出来ているかどうかを赤外分光法(A級紙第2回参照)で確認します。高校ではまず聞かない“グリニャール反応”ですが、内容はシンプル。例えばケトンやアルデヒド、エステルといったカルボニル化合物 R’-C(=O)-R’’ とグリニャール試薬 RMgX とが反応すると、C=O 結合が開いて R’-CR(OMgX)-R’’ となります(R はアルキル基またはアリール基、X はハロゲン元素)。東大入試・および東大模試の化学第3問では初めて聞く反応を考察していく問題が頻出ですが、有機化学ではかなりポピュラーな反応らしいし、結果だけ見ればシンプルだし、今後出題が無いとも限らないですね。探せば模試くらいになら既に出ているのかも? キーワードは還流、抽出、分液漏斗。ここでも、液相の境界ギリギリで分液漏斗のコックを閉じるのが難しくてですね、何回もやり直しました……。

金属錯体の合成――溶媒や温度によって色が変化するニッケル錯体の合成
 東大化学の第2問として近年その地位を固めつつある金属錯体。遷移金属イオンでできた錯体は多彩な色を見せるということで、ここではニッケル錯体を合成し、それが溶媒や温度によって様々に色を変えるのを観察します。物質の色が溶媒の違いによって変わる現象は“ソルバトクロミズム”、温度の違いによって変わる現象は“サーモクロミズム”と呼ばれますが、赤に青に粉末・溶液の色を変えることを通しこれを実際に確認する、とても見た目に分かりやすい実験です。操作も比較的単純なのですが、扱う物質・現象の説明が高校生向けには軽くで済まないので詳細は省きます。何せまず合成することになる物質が「(2,4-ペンタンジオナト)[トリオキソニトラト(-1)](N,N,N’,N’-テトラメチル-1,2-エタンジアミン)ニッケル(Ⅱ)」ですからね……。キーワードは金属錯体、色、有機溶媒。東大入試ではどれも比較的よく見るのですが、多くの参考書であまりページを割かれないトピックスゆえに勉強も手薄になりがち。かく言う自分も結局金属錯体はよくわからないまま大学に入ってしまったのですが、皆さんはそんな危ない橋を渡ることの無いように。


■原子・分子の電子構造■
原子スペクトル――水素原子の発光スペクトル
 高校範囲としては原子物理の内容ですが、原子は特定の振動数の光を吸収・放出してそのエネルギーの状態を変えます。この光の振動数は原子ごとに厳密に定まっていて、その正確さは現在の“1秒”の定義にも用いられているほどなので、資料が何の原子なのかを特定するのにも用いられます。ここでは水銀と水素について、数種類あるそれらの発光スペクトルを回折格子を利用して観測します。キーワードはバルマー系列、リュードベリ定数、回折格子、円形スクリーン。物理の用語だらけですが、実際この実験は“物理化学”という分野に分類されています。円形スクリーンは2012年度のセンター物理本試に登場したもので、この実験では回折し強め合った光を、回折格子を中心とする円周上を動ける望遠鏡を用いて観測します。

電子スペクトルと計算化学――共役系分子の光吸収
 高校でも原子の周りの電子の状態についてはある程度学びますが、こちらは比較的単純に説明することが出来ました。しかし分子の周りの電子となると話は複雑で、もはや量子論のシュレディンガー方程式とそれをうまく活用するための賢い近似の力が必須となります。量子論では目に見えない世界の話を議論するため、よくその信憑性が疑われたり実感が湧かないと言われたりするのを耳にしますが、この実験ではA級紙第2回で紹介した“分光法”とシュレディンガー方程式の結果を比較し、その有用性を確認します。またこれと共に、1,3-ブタジエン H2C=CH-CH=CH2 と1,3,5-ヘキサトリエン H2C=CH-CH=CH-CH=CH2 の分子軌道について、パソコンを用いてシミュレーションしてみます。何やらとてもカッコよさそうですが、実際は殆ど教科書通りに機械を操作するだけで、実感が湧くに至るほど理解の深まっている人は東大でもさすがにあまりいません。


■反応と平衡■
反応速度定数と活性化エネルギー
 高校化学の問題ではあまり主役になることのない気がする“活性化エネルギー”。登場するとしても、図から活性化エネルギーに当たる部分を選ばせる問題や「触媒を入れると反応が起こりやすくなる理由」など、個人的には比較的地味な印象が強いのですが、これは活性化エネルギーを議論するための知識が高校では大して紹介されないことによるものと思われます。
 1889年、アレニウスは反応速度定数を k とする反応と温度 T との関係の中に、次のような式が成り立つことを見出しました。


R は気体定数で、E は活性化エネルギー。最近の東大入試では2010年・2011年と本格的に扱われた反応速度論ですが、こちらは高校化学でも割と苦手とする人の多いバリバリ主役級の問題ですね。その反応速度論の話が、実はこの公式によって活性化エネルギーと結びついているのです。この実験では、過酸化水素水 H2O2 が水と酸素に分解する反応における反応速度定数 k を実際に測定することで、上の公式を使って活性化エネルギー E を求めます。キーワードは触媒、過酸化水素水の分解、活性化エネルギー、ホールピペット。薬品を入れたらサッと条件を整えてパッと時間を計らないと正しい結果が出なくなるのは大変です……。またホールピペットと言うと口で吸い取るイメージがあったのですが、実際には専用の器具があるんですね。時代は進歩していくようです。

酸解離定数の測定
 p-ニトロ安息香酸 NO2-C6H4-COOH とp-メトキシ安息香酸 H3C-O-C6H4-COOH という2つの安息香酸の一置換体について、酸の加水分解における平衡定数である“酸解離定数”を求めます。自分が高校生の時には、“酸とそのイオンのそれぞれの濃度なんてどうやって測定するんだ?”ということに疑問を抱かなかったのですが、皆さんはどうでしょう。例えば電離度を求めるにも、水溶液中にある酸か陰イオンかどちらか一方の濃度は測定する必要がありますが、片方だけの濃度を求めるとなると意外と難しそうです。この実験では、この方法の一つとしてまた分光法を用います。成分が違えば光の吸収具合(“吸光度”と言います)も変わるので、溶液に光を通しどれだけ吸収されたかを測定することで成分の比を求めることができるのです。キーワードは硫酸酸性、緩衝溶液、pH、平衡定数、メスフラスコ。“硫酸酸性”はよく耳にしますが、それに対し“NaOH塩基性”と言うこともできることはここで初めて知りました。メスフラスコをキーワードに入れましたが、この実験は今までに比べ特に厳密に薬品を計り取り調合する必要があり、苦労した覚えがあります……。


■微量物質の同定と定量■
分光光度法による鉄の定量――温泉水中の鉄イオンの分析
 またまた分光法を活躍させて、ここでは草津温泉と万座温泉の水の中に含まれる鉄イオンの濃度をそれぞれ測定します。温泉水には様々な成分が溶け込んでいるため、何かしらの化学反応で鉄の量を計ろうとしても、違う物質まで反応してしまうことが多く難しいのです。分光法の幅の広さにはただただ驚かされるばかりですね。キーワードは鉄の還元、滴定、ビュレット、ブランクテスト、共洗い。鉄イオンそのものの吸光度を求めるため、まずはイオンの濃度の分かる検液を作る必要があるのですが、この際東大化学2012年第2問Ⅱに登場した“EDTA溶液”を用いて濃度を調べることになります。またブランクテストとは、試料を入れない状態で測定を行って、試料を入れた状態での測定結果からその値を差し引くというアレですが、東大入試化学では2005年第2問Ⅰで出てきています。共洗いの方は説明不要でしょう。滴定の際共洗いすべき器具は何か、ちゃんと理解していますか?

電気泳動法によるタンパク質の分離と分子量の推定
 東大化学2013年第3問Ⅱにも登場した電気泳動法を利用して、未知のタンパク質の分子量を特定します。入試問題にもある通り、基本的には混合物から目的物質を分離するための電気泳動法ですが、陽イオンと陰イオンを分けるだけの定性的なものだと思っていた手法で、分子量と言う定量的なものを求めることができるというのは新鮮でした。キーワードはタンパク質の階層構造、架橋構造、電気泳動。合成高分子の内容はやはり受験勉強の中では手薄になりがちなところですが、東大ではここ2年連続で出題されており気が抜けません。重合の話ついでに、この実験ではアクリルアミドを使うのですが、これは神経毒。他で使う強酸や強塩基も勿論危険ですが、教科書で改めて毒と言われると特に気を張りましたね。


■物質の定性分析■
無機陽イオンの定性分析
 様々な薬品を用いて、溶液中に存在する金属陽イオンを特定する手法を3回に分けて学びます。このような系統分析は受験勉強でも定番ですね。1回目、2回目で指定された通りに硫化物沈殿や炭酸塩などを作り定性分析の基本操作に慣れた後、3回目で実際にその力を試します。未知の金属陽イオンが3種類入った試験管を渡され、それを自分で分析して特定する、というものなのですが、全12回の基礎化学実験の中でこれが一番面白かったと答える東大生は多いと思います。確かに他の実験はどうしても作業感が強くなりがちですし、この実験で3種類全部当てられた時の達成感は他にはありませんからね。キーワードは定性分析、溶解度。この金属イオンを含む溶液に何の薬品を入れるとどんな色の沈殿が生じるのか、この時期にはそろそろ固めておきたい所です。


 いかがだったでしょうか。「原子・分子の電子構造」の章は少々難しいですが、それ以外はうまくすれば東大入試の問題に仕立て上げることができそうな内容ですし、事実既に出題されている内容にどこかしらで関連のあるものが多かったのも見てきた通りです。そもそも受験勉強で馴染み深いという手法も多かったでしょう。それもそのはず、“基礎化学実験”を行う意図は今後実験を行う上で必須となる手法の中で特に基礎的なものを習得するというところにある訳で、そういった基礎的な手法を高校でしっかりと学ぶのですから。
 第2回での締めくくりにも繋がりますが、新しい何かを知るには賢い知恵が必要で、先人達の知恵の積み重ねが今ある実験操作・手法・器具ということになるでしょう。これらが足場を固めることで、今の科学は成り立っています。それなら、東大ではどのようなことを実際に学ぶのか? 具体的なイメージを持ってもらえればと思い、今回このような記事を書きました。東大と今目の前にある化学の勉強について、少しばかりでも関心を増していただけたのなら幸いです。それではまた次回。

2013/10/11 石橋雄毅

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